広告のあり方を変えた新聞というマスメディアの登場。
一度に多くの人に対して情報伝達を可能にするマスメディア。なかでも、テレビ、ラジオ、雑誌、新聞は主要四媒体とされており、マスメディアを代表する媒体であることは誰しも認めているところかと思います。
《広告》というものを考えていくとき、これらマスメディアとの関係は切っても切り離せないものです。近代の《広告》のスタイルはこれらのマスメディアによってつくられてきたといっても過言ではないでしょう。
中でも、日本の広告の歴史の中で新聞というマスメディアの登場は、その後の広告のあり方を大きく変えるターニングポイントとなったのではないでしょうか。
今回は、広告のあり方を変えた新聞というマスメディアが、どのように日本登場してきたのかをまとめさせていただきました。是非、最後まで読んでいただければと思います。
【目次】
- マスメディアが登場する前の広告
- 引き札と浮世絵
- 新聞というマスメディアの登場
- 日本で初めての新聞
- 日本語での初めての新聞
- 日本人による初めての新聞広告
- 広告の有益性を広めた福沢諭吉
- 広告出稿に重要な購買者層というセグメンテーション
- 変わるメディアの変遷
- まとめ
①マスメディアが登場する前の広告
日本における《広告》の始まりをいつとするかという疑問には、様々な議論がありますが、まずは、マスメディアが登場するまでの日本の《広告》がどういうものだったかを少し見てみたいと思います。
日本における、広告の歴史は701年の大宝律令による標(しるし)がその起源であるというも説もありますが、これは「市で何を商いしているか」を示したもののようで、現代的な観点から言う《広告》とは少し違うものかもしれません。
◆引き札と浮世絵
もう少し、現代的な意味合いで《広告》というものを捉えると、江戸時代であった1683年(天和3年)に呉服店越後谷(三越)による引き札が知られています。
引き札とは、現代でいうところのチラシ広告のようなもので、商いの告知を紙に印刷して配布したというものです。
この引き札の発展に大きく関係しているのが、浮世絵版画の技術です。浮世絵の始まりは、1657年(明暦3)に起こった江戸の大火頃とされ、この江戸の大火による復興の様子を絵画にしたのが始まりと言われています。このころはまだ、肉筆画と版画の両方が主流でしたが、徐々に版画の技術が発展していくことで、その価格も安くなり、江戸の庶民の娯楽として親しまれるようになっていきました。
浮世絵の発展と、広告である引き札の登場はほぼ同じ時期といえますが、これはまさに、グーテンベルクの活版印刷がメディアのあり方を変えたことと同じかと思います。浮世絵の技術により、安価に大衆に情報を届けることが可能になったといえます。
②新聞というマスメディアの登場
浮世絵の技術を活用した、引き札という広告手法は、江戸の人々に対し、一度に情報を告知する手法であったといえますが、現代的な意味合いで、人々が多く集まるもの・多く利用するものというメディアを活用した広告手法とは言いにくいのではないでしょうか。
そのような、「人々が多く集まるもの・多く利用するもの」という意味合いで、初めて日本に登場したメディアが新聞です。
そして、新聞というマスメディアが登場したことにより、《広告》という存在は大きくその価値を変えていくことになります。
◆日本で初めての新聞
新聞というメディアが、日本で初めて登場したのは、1861年(文久元年)の長崎のことです。長崎で貿易商をしていた英国人A.W.Hansardという人物が発行した
『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』
という英字新聞が日本で最初の新聞だとされています。
この新聞には長崎に入出港する船舶の情報や気象情報(予報ではなく過去の週間天気)などが記載されていました。西暦の日付と日本の暦の日付の対応表も記載されており、この新聞が、外国商人が日本でビジネス展開をするために必要な情報の橋渡しとなっていたことをうかがえます。
※新聞内にはAdvertisementと区分された広告枠が用意されています。
この新聞が英字新聞であることからも分かるように、購読者の対象は、長崎に出入りする外国人であるため、長崎を拠点とした会社の広告だけでなく、上海を拠点とした会社の広告も多く見られ、日本人をターゲットとした広告は恐らくなかったのではないかと思われます。発行部数も数100部程度だった想定されます。
ちなみにこの新聞の創刊号(1861年6月22日号)に載っていた広告にInternational Bowling Saloon(インターナショナル・ボウリング・サロン)の開業のお知らせがありました。ですので、この日は『ボウリングの日』とされています。
『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』は週2回刊で1861年6月22日から始まっていますが、同年10月1日の28号で廃刊となっています。その後、創刊者であったA.W.Hansardは横浜に移り、週刊新聞『The Japan Herald』を創刊しており、その後、1863年には日本で初めての日刊新聞『Japan Daily Herald』を創刊しています。
※長崎大学がこの新聞の電子化し公開してくれていますので、興味のある方はコチラも参考にしてみてください。
http://gallery.lb.nagasaki-u.ac.jp/nsla/
話しを《広告》に戻しますと、『The Nagasaki Shipping List and Advertiser』の紙名にある“Advertiser”というのが、日本が初めて目にした「広告」を意味する言葉です。当初は広告と言う単語はなく、「アドウルチイスメント」と舶来語としてそのまま用いられていました。「広告」という言葉は、1871年(明治3年)に発行された、日本語での初の日刊新聞紙『横浜毎日新聞』の中で、用いられたものが徐々に一般的になっていったと考えられています。
◆日本語での初めての新聞
新聞が日本で発行されるようになった初期のものは、それを日本に持ち込んだ外国人、もしくは外国人達とビジネス上のつながりがある人達、向けのものであったため、英字もしくは英字新聞の翻訳というものが主流でした。
日本語での新聞として、初めての新聞として知られているのが1862年(文久2年)に発行された、
『官板海外新聞』(官板バタビヤ新聞)
という新聞で、日本で初めて《新聞》という言葉が使われたものとされています。
※バタビヤとは当時オランダ領であったジャカルタのことです。
この新聞は、当時のオランダ総督府から幕府に送られていた機関紙をまとめて翻訳したもので、新聞とは言うものの、書物に近いものでした。
◆日本人による初めての新聞広告
日本に新聞というものが入ってきた時点で、そこには既に新聞広告という枠が存在していましたが、その広告は外国商人の広告主によるものでした。日本人として初めて、新聞広告を掲載させたとして知られているのが、中川屋嘉兵衛という人物で、
『パン ビスケット ボットル 右品物私店に御座候間多少に寄らず御求被成下度奉願候
横浜 元町一丁目 中川屋嘉兵衛』
という1867年(慶応3年)に掲載された広告が、日本人広告主による初の広告と言われています。
この広告は、同年に、横浜在留の英国人宣教師ベーリーが発行した
『萬國新聞』
に掲載されました。
③広告の有益性を広めた福沢諭吉
新聞が日本で発行されるようになった初期の新聞は、日本に居留していた外国人商人向けのものが多かったので、その発行部数はさほど多いものではありませんでした。
しかし、徐々に一般庶民へと広がり、マスメディアとしての重要性が高まるにつれ、政治的な機関紙化した新聞が増えていきました。そのような中で、新聞のメディアとして独立性の重要性に気付き、本来あるべき、ジャーナリズムのあり方を世に問うたのが福沢諭吉です。
福沢諭吉が1882年(明治15年)に発行した日刊
『時事新報』
という新聞は、「独立不羈」を謳い、中立の立場から政論を展開していきました。
福沢諭吉は、《広告》にも力を入れており、その時事新報の社説の中で『商人に告ぐるの書』と題して、当時の世の中に、新聞に広告を出すことがいかに有効かということを説いていきました。
この中では、従来の引き札という広告手法では、全ての家々にとどけるのは難しいことであるが、新聞広告であればそれよりも多くの家々に広告を届けることが出来ると、新聞がいかに、広告媒体として優れているのかを述べています。
興味深いのは、無料で配布される引き札は無料であるがゆえに読まれずに捨てられてしまうが、新聞であれば、自分で対価を払って購読しているため、社説も雑報も広告も読まなければ損であると考えられるので、読んでくれるだろうと説いている点です。
このことは、現在にも通じる有料の情報の価値というものを、福沢諭吉が既に考えていたことを伺わせます。
◆広告出稿に重要な購買者層というセグメンテーション?
時事新報と広告と言う点で、もう一つ興味深いのが、時事新報が広告媒体としての有益性を、自社の社説のみならず、他の新聞の広告欄も活用して説いていたという点です。この時事新報としての広告も福沢諭吉自らが考えたものと伝えられていますが、その中で、新聞の広告媒体としての価値が、発行部数だけでなく読者の購買力にあるとしていた点は、非常に先見性を感じさせるものといえます。
大変興味深いので、少し長いですが、その中の一部を引用しておきます。
“ 商売に廣告の必要なるは、兵士に武器の必要なるが如し。何程の勇士にても、既にて敵を攻めて勝を取ることは難しく、何程抜け目なき商人にても、広告を為さずして商利を博することはむつかしい。廣告に種々方法ある中にも、新聞紙を利用するに越すものなきは、世界中の定論なり。而して又其用に供する新聞紙は最も発行紙数の多きものを選ぶこと勿論なれども、発行紙数に兼ねて、又其新聞紙を購読する者の富有上流の人物なる事を要するなり。何となれば、商人の最も望を属する所の相手は、社会下等の人物に非ずして富有上流の人々にあれば也。時事新報は単に発行紙数の夥しきのみならず、日本國内にて最も上流社会の愛読する新聞紙になるが故に、商人の廣告用に最も効力多き利器なるベし。”
※『廣告五十年史』より引用
既に、メディアとセグメンテーションという考え方をうかがえる、一文といえると思います。
④変わるメディアの変遷
新聞が登場するまでは、引き札に代表される、人の手を介した形で伝達されていく広告が主流でしたが、新聞の登場により、人の手を介さずに、一度に多くの人々に広告を届けることが可能になりました。このことは《広告》のスタイルや価値観を大きく変えたといえます。
そして、日本に新聞というメディアが定着してきてから、ほぼ150年。インターネットメディアの登場により、《広告》のスタイルや価値観が大きく変わろうとしているのではないでしょうか。
電通が毎年発表している『2018年 日本の広告費』では、新聞媒体は前年に引き続きマイナス成長となっており、その広告費は1980年代後半から1990年代前半のピーク時から実に3分の1程度まで下落してきています。
一方でそれに代わり、プラス成長を続けているのが、インターネット広告です。インターネット広告の登場と発展は、従来の広告のスタイルを大きく変えるものとなりました。最近では新聞も紙媒体からデジタル媒体への切り替えが進み、新聞の広告メディアとしての再建に期待がされています。
⑤まとめ
いかがでしたでしょうか。今回は、新聞というマスメディアの中で《広告》がどのように扱われて来たかをまとめさせていただきました。特に、新聞の黎明期において、垣間見える近代広告の発展は、現在のマスメディア型広告からインターネット型広告への転換に似たような様相を感じさせます。
歴史の中で《広告》というものがどのように、変遷を辿ってきたかを考えることで、これからのインターネット広告のあり方というものも見えてくるような気がします。